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大正14年 飴菓子製造・販売で始まった宮戸商店

茨城県の西のはずれ、古河に宮戸安之助が妻・たきと製菓業「宮戸商店」を開業したのは大正14年。安之助は21歳、そしてたきはまだ15歳という若さだった。

第1章 大いなる船出

その年、曲丸古谷商店の「フルヤミルクキャラメル」が全国的にヒットしていた。まだ流通が整備されていない時代、そして保存もままならない時代の飴菓子のヒットの噂を耳にし、安之助にはある確信があった。

「甘いものは必ず売れる」

安之助は古河南新町に店舗を借り上げ、まずは菓子の販売、そして卸業「宮戸商店」を始めた。この菓子販売業の傍ら安之助は暇を見ては全国の菓子工場へ見学に出かけ、やがて「自分で作ってみたい」との思いから、店舗の裏に製造工場を備えて菓子製造を始めた。安之助とたきは工場で飴菓子を製造し、そして店ではそれらを販売、ときには注文を受けて配達まで行っていた。

工場で飴の材料となる砂糖を煮詰めると、その甘い香りが店の周囲に漂う。大正から昭和に時代が変わっても、砂糖の貴重さは変わらなかった。その甘い香りに誘われ、店には多くの客が詰め掛けた。とくに子供たちには砂糖の香りに抵抗しがたく、なんとかその飴を買ってくれるよう親たちにせがんだ。

「母ちゃん、飴買ってくれよ」
「しょうがないわね、じゃあ今回は特別だよ」

当時の家庭に飴は一種の贅沢品でもある。頻繁に買える家庭はそう多くなく、誕生日など特別なときに買いに来る親子連れも多かった。そんなとき、たきは店頭で量り売りの飴をそっと少しおまけしてあげたのであった。

やがて「宮戸の飴は美味しい」と評判になり、店は飴を求める客がひっきりなしに訪れるようになった。

腰袋店が繁盛すれば、今度は商品をより多く作らなければならない。まだ若かった2人は、それこそ昼も夜もなく働いた。とくにたきは“明治の女”らしい根性があった。夜、工場で製造した飴菓子を昼間店で売る。その両方にたきはフル稼働していた。平均睡眠時間は3時間、ときには飴を煮詰めながらついウトウトし、飴を煮る釜に頭をぶつけて目が覚めるということもあった。

ゴンという音に安之助が駆け寄り「大丈夫か?」と声をかけると、たきは「ごめんなさい、つい眠くなってしまって」と答え、また何事もなかったかのように煮詰めの作業を続けた。

一方で安之助は飴の仕上がり具合、つまり味に厳しかった。飴を製造するには水飴を煮詰め、そこに砂糖を混ぜることで味を決めていくのだが、その砂糖の加減がなかなか難しかった。現代のようにオートメーション化されているはずもなく、また気温や湿度によっても砂糖の量を加減しなければならなかった。

そしてもっとも難しかったのが、火を止めるタイミングであった。もっとも熱く、そして焦げてはならない、そんな絶妙なタイミングを見極めなければならない。あるときは火が足らず、そしてあるときは焦げてしまうこともあった。釜で飴を煮詰めるのはたきの仕事であったが、そんな“未完成品”を作ってしまったときには、安之助は容赦なかった。

「こんなに材料を無駄にして。こんなもの店に出せるか」とたきを叱責した。

後年、たきは安之助との創業時代を思い出して、「お父さんは味には厳しい人だった」と述懐する。
こうして安之助とたきの二人三脚による宮戸商店は、昭和の荒波にもまれながら大きな転機を迎えることになる。


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