第2章 飛躍へのステップ

洋菓子製造業への転進、そして本格的工場建設して間もなく太平洋戦争が始まった

戦争の足音が古河の街にも迫ってきていた。昭和6年の満州事変から日本は中国大陸への意欲を露にし、戦争の影が庶民の生活にも影響を与えるようになってきていた。

宮戸商店は昭和に入って古河市南新町から今の古河駅近くに移転し、その際に販売業から手を引き、飴をはじめとする菓子製造業に専業化していた。

昭和初期は、ケーキやビスケットなど、いわゆる洋菓子がどっと日本に流れ込んできた時代でもあった。
飴製造・販売で成功を収めていた宮戸商店であったが、宮戸安之助はこれだけに飽き足らず、洋菓子への進出も目論んでいた。それには菓子業を始めるに当たって全国各地を歩き回り、菓子店や菓子工場を回って見て歩いた経験が活きていた。

「たき、これからは洋菓子にも挑戦してみようと思う」

当時の製造業、とくに食品関係は流通が課題となっていた。ケーキ類のような“生もの”は、大量生産、大量輸送はできない。比較的保存が利いて、遠くまで送れる物…。安之助はビスケットに目をつけた。

「これならたくさん作って、遠方にも卸せる」。たきも飴製造だけではもの足りないと思っていたこともあって安之助の意見に賛同し、こうして宮戸商店は洋菓子製造に乗り出した。

「動物ヨーチ」という菓子がある。動物の形をしたビスケットに、色をつけた水飴をまぶしたものだ。安之助とたきは、この動物ヨーチを宮戸製菓の主力製品として売り出した。これが評判を呼び、販売注文がひっきりなしと舞い込み、工場はてんてこ舞いとなった。もう2人だけでは間に合わない。これまでも忙しい時には近所の人に手伝ってもらっていたりしたものの、それでは間に合わなくなり、従業員を常時雇うことにした。

昭和10年代に入り、世間は戦争への足音が確実に迫っていたが、そんなときだからこそ、甘いお菓子は庶民の楽しみであった。また、太平洋戦争前で、材料となる小麦粉、砂糖、などの菓子の原材料となる物資も比較的楽に手に入っていた。

安ノ助とたきは動物ヨーチに続き、コーンスターチ、水飴、ゼラチンなどを使って作る、軽い歯ざわりのバナナ型の菓子「フローレット」を製造。こちらも動物ヨーチ同様ヒットとなり、当時の工場では手狭になってきた。

昭和16年、2人は古河七軒町(現在の本町四丁目)の線路沿いに広大な敷地を見つけ、こちらに工場を移転することに決めた。ここはこれまでの工場の10倍以上の広さをもつ敷地で、本格的な工場を建設することもできた。

安ノ助とたきは、資金も従業員も施設もこれまでとは比べ物にならない大きな“買い物”をした。2人はこの敷地を眺め、期待と不安に身を包みながら、宮戸製菓の洋々たる未来像を描いていた。

しかし……。

移転した16年12月に日本がアメリカに宣戦布告し太平洋戦争が始まり、2人の夢は一時停滞を余儀なくされる。原材料となる物資の供給がなく、動物ヨーチ、フローレスといった子供たちを楽しませた菓子は、生産縮小を余儀なくされた。空襲警報がなるなかで、2人は早く戦争が終わることを祈っていた。

 

 
 


第1章 大いなる船出 第2章  飛躍へのステップ 第3章 そして未来へ

かりんとう伝説