第3章 そして未来へ

昭和という時代を駆け抜けた安之助とたきの夢

昭和20年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争が終わった。

それまで逼迫していた物資が一気に手に入るようになった。軍国主義時代の重い空気が取り払われ、世間は一気に新時代への期待に溢れた。太平洋戦争当時には、「贅沢品」とさえ言われた菓子が、また庶民の口に入るようになっていた。

また、安之助は新時代をにらんだ新たな事業を胸に秘めていた。菓子業には小麦粉が欠かせない。これまでも小麦を買い付け、自社分の小麦粉を製粉していたが、これが大きな事業になると考えていたのである。

小麦粉はビスケットなど菓子類の原料になるばかりではない。ラーメン、パン、うどん、お好み焼き……、多くの食材に欠かせない原料であった。戦争が終わって一気に食料革命が起こり、日本人に小麦粉は欠かせないものになりつつあった。安之助はここに目をつけたのである。

そして昭和22年、本町の工場とは別に、古河平和町に製粉工場を建設した。全国各地にできていた菓子、うどん、麺類、パンなど、こういった食品を製造する工場に向け、業務用小麦粉を提供する工場だ。平和町の大きな新工場は、当時としては大きな4階建ての倉庫を備えていた。古河駅付近からも、この大きな建物は一際目立って見えた。

日産3,000袋。製粉工場からの運搬に備え、安之助が国鉄と話し合い、引込み線も導入した。工場施設内に貨物車両を引き込み、宮戸産の小麦粉は貨車に乗って全国各地へ運ばれた。宮戸製菓は菓子製造と製粉業とを両輪に、戦後の混乱期を乗り切った。

現在のミヤト製菓の主力商品であるかりんとうは、こんな小麦粉製粉業と関連して、昭和27年から考案・製造された。かりんとうは小麦粉を揚げ、それに黒糖をかけて作る。自社で生産している小麦粉を使い、また当時は黒糖が安かった。

「安くて美味しいもの」。かりんとうはまさにそんな安之助とたきの思いにぴったりの製品だった。また、評判もよかった。こうしてかりんとうが宮戸製菓で作られ、現在のミヤト製菓の基礎ができあがった。

★                ★

現ミヤト製菓の専務取締役である小林達夫は、「たきさんは、それはもう頑張り屋でした。私がまだ若かった頃は、よく創業当時の話を聞きました。安ノ助さんの発想力とたきさんの頑張りという二人三脚が、ミヤトの草創期を支えたのだと思います」と述懐する。

安之助、たき夫妻の孫にあたる宮戸英明現代表取締役社長も、「祖父は残念ながら知りませんが(安之助は昭和38年に死去)、祖母が社員を前に陣頭指揮をとっていた姿は覚えています。“明治の女”という感じで、いつもきびきびとしていましたね」と、後年のミヤト製菓社長時代のたきの姿を語っている。

たきは現在も健在で古河市に在住し、ミヤト製菓の未来を見つめている。

 

  


◀◀第1章 大いなる船出 第2章  飛躍へのステップ 第3章 そして未来へ

かりんとう伝説